中小トラック運送企業の経営者の中には、これからの経営環境の変化やそれに対する会社としての対応と方針などを、社内の幹部会議で話をしても理解できる幹部がいない、情けないと嘆く人もいる。
このように嘆く経営者は、実は良く勉強していて先を見通す力を持っている経営者である。したがって、幹部や従業員の人たちよりも1歩先のことを見通しているのだ。
しかし、それを話しても理解できないのは、必ずしも幹部や従業員が悪いわけではない。良く勉強している経営者なのだが、幹部や従業員にも理解できるようにする工夫と努力が欠けているのである。これは、その経営者自身の力量の問題なのであり、幹部社員や従業員の責任ではない。
たしかに経営者は1歩先を見る目を持ち、1歩先を知ることができなければいけない。それはトップとして当たり前のことなのである。
しかし、1歩先のことをそのまま話しても、理解できる人は少ない。社内で幹部や従業員に話すのは、半歩先の内容でなければ理解されないのである。自分は良く勉強をしていて1歩先のことを考えているからといって、誰からも理解されないのに1歩先のことを得とくと話しているのでは、ただの知識の披歴であり、自己満足に過ぎない。
学者ならば他者よりも何歩も先のことを研究し、その研究成果を理解できる人が少なくてもそのまま発表すれば良い。それが学者の仕事であり、役割だからである。本人が他界した後で、その理論の正しさが実証されることもある。本人はすでに故人になっていても、先験的な業績に対する評価と名誉が与えられる。このように学者にとってはアリバイを残すことが重要なのであり、亡くなってから評価されても、推測でしかないがおそらく本望なのではないだろうか。
しかし、経営者は学者ではない。どんなに先を見通した優れた考えを持っていたとしても、それが会社の幹部や従業員に理解され、実際の事業活動に活かされなければ意味がない。経営者にとっての勉強とは、知識を得ること自体ではなく、その知識を生かして経営に役立てることだからだ。
業界にとどまらず経済界や一般にも著名なある経営者との話である。現在では故人であるが、有名なサービスを開発した優れた経営者として知られた人である。
この経営者が社長として全盛であった当時、同社のメインのサービスを補完するような役割を担う子会社を設立した。私は記者会見にはほとんど出席しない。そこで子会社を設立して約1カ月が過ぎて、この経営者と個別に会って新会社について話を聞いた。
その時、その子会社で行う業務内容はすでに発表されていた。しかし、発表の中では全く触れられていない、ある業務内容を行っていくことが子会社設立の本当の狙いではないのか、と質問した。
するとその社長は、驚いたように一瞬ではあるが鋭い眼光を向けてきた。その目は、そんな質問をする取材記者がいたのか、という心理を物語っていた。しかし、それはほんの僅かな瞬間で、すぐにいつもの眼差しに戻った。そして、首をわずかに傾げ、平素の穏やかな口調で次のように答えたのである。「それまでにはクリアしなければならないハードルがいくつかあるんですよ」、と。
これぞ即妙の答である。こちらの問(仮説)に対してノーとは言っていない。ということはイエスである。しかし、実現までには解決しなければならないいくつかの課題がある。また、長い時間も必要だ。それなのに、今の時点でトップの口から積極的にイエスと答えてしまうと誤解を招くし、また、何よりも自社の幹部を含めて理解できる人は少ない。
そこで、“いま自分の口からイエスと言うわけにはいかない。しかし、君の仮説は間違っていないから、君が自分の推測という形で書くのならどうぞ”と応えてくれたのである(もちろん、そのように書いたことは言うまでもない)。
ちなみに、その時に「本当の狙い」ではないかと質した業務(サービス)内容は、その後、現実のものとなった。現在では、同業他社の数社を含めてごく一般的なサービスの一つになっている。
このエピソードは、この経営者が1歩も2歩も先を見越していたことになり、先見性がいかに優れていたかを物語っている。しかし、その時点で本当の狙いであるサービスについて語ったとしても、それを理解できる幹部は皆無に等しかっただろう。同業他社の経営者ですら、理解できる人は極めて少数だったに違いない。
ちなみに、この経営者は、今でこそ一般的になっているリストラと全く同じ内容の企業再構築を、いまから40年以上も以前の1974年から76年にかけて断行した。1,000人規模の大幅な人員削減、有名な大手企業を含む採算性の低い取引先からの撤退、将来性のある新規事業の創造である。
現在でも業績の悪い企業には、そっくりそのままお手本になるようなリストラを行っていたのである。