運営は社長がいなくても大丈夫な会社にする②

何かと社長の携帯電話に指示を仰いでくる幹部社員の本心と社長の心裏


「つまらないことまでいちいち指示を仰いでくる」と愚痴ってはいても、社長の心理として、つまらない事まで指示を仰がれないと逆に不安になってしまう。時には猜疑心すら芽生えてくることもあるのではないか、とも思われる。

実は、このような経営者心理こそが、幹部社員すら「つまらん」ことまで、「いちいち」指示を仰いでくるような会社にしてしまっている原因なのだ、という点に気づかなければいけない。いわば、経営者自身がそのような幹部や会社に満足している面があることも否定できないのである。

そのことに気づいて、そこからいかに脱却を図るかを考えないと、いつまで経っても、企業としてそれ以上には発展できないことになってしまう。企業の規模的な成長もそうであるが、企業の質的なレベルアップもできないのである。

同乗している車の中で、「困ったものだ」と経営者が筆者に話を振ってくるようなケースでは、ズバリ、経営者のそのような心裏を指摘することにしている。「本当に困ったものだと思っているのか。細かいことまで指示を仰がれることに、内心では満足感を持ってはいないのか」。

このように話すと、自分では意識したこともなかった深層心理を突かれ、「言われてみると、たしかに、そのような面があるかも知れないな…」と、たいていの経営者は考え込むのである。

しかし、経営者を心理的に追い込むだけではいけない。会社をより発展、成長させるにはどのようにしなければならないか。管理職なら自分の権限と責任の範囲で判断させるようにするにはどうすべきか。具体的なところから改善の方策を考えなければ意味がない、といった話をすることにしている。

「つまらないことまで、いちいち聞いてくるな」とは言うものの、内心では満足感を覚えている経営者の深層心理を、実は、幹部社員は見抜いているのである。

本当は自分でどのように対処すれば良いかが分かっているし、また、社長がどのように判断するかもほぼ正確に予測できている。それでも、自分の役職の権限と責任において判断してしまうよりも、社長に指示を仰いだ方が利口だ。

社長が「そのくらいは自分で判断しろ。まったく困ったものだ」と口では叱るが、本心から怒っているのではなく、むしろ内心では満足しているという心裏を部下は知っている。だから、いちいち判断と指示を仰いでくるのだ。

そのような面においては、経営者よりも部下の方がしたたかで、経営者の方がむしろ単純と言えるかもしれない。このような様子を第三者の立場で観ていると滑稽でもある。

ところが、部下はしたたかなだけではない。むしろ狡猾というケースも見受けられるのである。したたかなだけなら、その人なりの必死の処世術として微笑ましいと言えなくもない。ところが狡猾となるとそうとは言っていられなくなる。

狡猾とはどのような意味なのか。それは、幹部社員が自分の責任をたくみに回避しているようなケースである。つまらないことまで社長に判断を仰いでくる管理職は、社長を頼っているのではなく、実は自分に責任が及ばないようにするために聞いてくるだけなのである。その問題をどのように解決すれば会社にとって一番良いかではなく、自己保身を第一に考えているのだ。こうなると、会社の体質やレベルの問題になってくる。

つまり、幹部社員がその役職からみて自身の権限と責任において判断すべきレベルの内容であっても、いちいち社長にお伺いを立てるのは、そのことに社長が満足感を覚えることを知っているからだけではない。社長の判断と指示に従ったのであれば、結果的にその判断が間違った場合でも、自分の責任が問われることがないからである。また、忠誠心を売り込むことにもなる。

だから判断を仰いだ時には「そんなことまで、いちいち……」と言葉では叱られても、それは口先だけで社長の本心からのものではない、ということを知っている。一方、自分の権限において判断したことが結果として間違った場合には、本当に叱られるだけではなく、相応の責任も取らなければならない。それをたくみに逃れるために、つまらないことでも聞いてくるのである。

このように一見、社長を頼っているような振りをしながら、本当は自分の責任をたくみに回避しているだけなのだ。

経営者は、そのことに気づくべきだ。やはり会社には自分が必要なのだ、といった自己満足に浸るのではなく、企業を発展させるにはどのようにしなければならないか。組織の在り方や、幹部の人事などを根本から見直さないと、いつまで経っても、「自分1人で会社が成り立っている」ようなレベルから成長させることはできない。

このようにみてくると、「つまらないことまで、いちいち自分に聞いてくる」ことに、内心では自己満足してなどいられないのである。