創業経営者は基本的に足し算の経営で良いのだが、企業の一定の発展段階では、引き算が必要になる局面につきあたる。その時、どのような経営判断ができるかで、企業がさらに発展するか、それとも以後は現状の企業規模を維持するだけの経営になるか、あるいは不幸にして撤退を余儀なくされるか、といった企業の大きな分岐点に遭遇する。
ある地方の中小事業者の話だ。その当時の従業員数は約20人という規模だった。
この企業も創業経営者だが、ある時、売り上げの約20%を占める取引先から撤退したことがある。しかし、撤退を機に他の顧客との契約内容の見直しを図った。適正な利益を確保できるような契約の在り方を研究し、独自のコスト算出と取引先への交渉の仕方を工夫したのである。
そして、既存の取引先には契約条件の改定を進めた。また、その後に新規に開拓した顧客については、最初から新たな契約条件での取引をするようにしたのである。その結果、以前よりも利益率が良くなった。と言うよりもその業界の中では、かなり高い利益率の会社になったのである。
この社長に、どのような経緯で取引を止めることにしたのか。それにしても売り上げの約20%を占める取引先からの撤退にはかなりの決断を要したのではないか。また、先方にどのような理由で取引を止めると話したのかなどを聞いた。
すると、まず最初は不況になって運賃単価を下げてほしいという要請があったという。そこで、経済環境が厳しいことはお互い様なので、苦しさを分かち合いましょう、ということで運賃単価の値引きに応じた。ところが、1年後にも再び、運賃単価を下げてくれと言われたのである。そこで、この社長は、「そこまで運賃を下げてしまうと従業員教育に回す費用が捻出できない、それでは責任ある仕事をすることができなくなってしまうので取引を止めさせていただきます」、と言って撤退したのだという。
この話を聞いて、社長の言葉にウソはないと判断した。と言うのは、筆者は社長に面談する前に従業員のレベルを試していたからである。この会社は従業員教育にかなり投資しているな、と社長に会う前に判断していた。
それにしても、そこまで運賃単価を下げては従業員教育にかける費用が出ないので取引から撤退しますとは、実に恰好が良いではないか。たいていは、その運賃では利益が出ませんから何とか運賃値下げを再考して下さい、と言って懇願する経営者が多いはずだ。とくに中小事業者なら、大手の元請け事業者に対して一度で良いから言ってみたい台詞ではないだろうか。
それはともかく、重要なのは引き算をする判断力と、その反省なのである。この経営者は、それ以降は規模よりも収益性を重視する経営に基本方針を転換し、収益性の良い経営を志向するようになった。
ところで、この引き算という発想は、ニッチ商品やニッチ・サービスを成功させる場合にも重要なキーワードになる。ニッチは、一般的には「隙間」といった解釈がされている。筆者はニッチを、適材適所の「適所」と解釈するようにしている。
ニッチの解釈はともかく、ニッチ的なサービスの場合には、やや誇張していえば引き算が成功するための重要なキーワードになる。「この範囲」で、「このような条件」で、という制約要件の枠内なら「この料金で」成り立つというサービスが、ニッチ・サービスだからである。したがって、上手くヒットしそうになった場合、その境界線の枠を少し超えたぐらいなら良いだろう、という誘惑を振り払う勇気が必要になる。一定の制約要件の範囲内で成り立つサービスだから適正利益が得られるのに、その枠を少しでも超えて受注するようになると、売上金額は拡大するが、利益率は低下してしまう。
ニッチ・サービスで急伸して注目されても、やがて失敗するケースがあるが、その原因は少し成功しかけると足し算をして売上拡大を優先する心理が強くなってしまい、なぜ成功したのかという基本的な条件を忘れてしまうからである。
実際にニッチ・サービスで業績を上げ、マスコミなどでも紹介されて注目を集めた中小事業者がいた。取材をしてそのサービスの仕組みを分析したら、そのサービスが成り立つための制約要因の枠からはみ出さないように努めていることが、成功している最大の理由であることが分かった。売り上げ拡大のみの足し算の誘惑に負けないように、引き算を基本にして事業を組み立てていたのである。つまり、ニッチ・サービスの基本に忠実だったから成功したのであった。
ところが、その経営者はフランチャイズ制で全国展開しようとしたのである。しかし、成功させるための諸条件が適合するようなフランチャイジーが見当たらない。そのニッチ・サービスは、特殊性をもったその立地条件の商圏内で自社が行っているから成功しているのである。にもかかわらず、全国展開しようとして、結局は失敗してしまったのである。マスコミなどで取り上げられ、注目されたことが災いした。フランチャイズ制で全国展開すれば、さらに「ベンチャーの旗手」ともてはやされるのではないか、という心理的な誘惑に負けたのである。