ある中小企業では、オーナー社長が亡くなる前に、自分の子息を代表取締役会長に、そして代表取締役社長には優秀な社員を指名し、さらに2人の役割分担を指示したケースがあった。会長と社長は同年代だが、お互いの役割を自覚し、協力し合っている。その結果、経営は順調に推移し今日に至っている。最高経営責任者(CEO)と最高執行責任者(COO)という発想である。
このようなケースは極めて少ない。子息の健康上の問題もあったことは事実だが、亡くなった前オーナー社長は、物事を客観的にみることのできる経営者の見本のようなものである。
一方、後継者問題では、経営能力だけではなく様ざまな条件を総合的に判断すると、オーナーの子息が社長を継承するのがベターと思われるケースが多い、ということも事実である。もちろん、なかには大丈夫だろうか、不安だなと感じるような子息もいる。それでも、社長を継承して何とかなってしまう。何年か経つとやはりこの会社の中では見識や判断力など一番であり、社長らしくなったな、と思わせるのである。
オーナー経営者の子息と同年代で、若い時には子息よりも優秀な社員がいたとする。しかし、子息が社長を継ぐころには、どんなに優秀ではあってもやはり社員は社員だな、と思うようになってしまうことがある。現在でもその社員は在籍しているのに、二代目と優秀な社員との差は、どのようにして生じるのか。
一番の差は、オーナー経営の会社の場合、子息はいずれ自分が経営を継ぐのだ、あるは継がなければならない、という意識や自覚があるからだ。それに対して社員は、役員にはなれるだろうが社長にはなれない、という諦念が最初からある。
したがって自分がトップになった時にはどうすべきか、という観点からものを観たり考えたりすることをしていない。訓練をしていないので、そのような見地から判断する能力が育たないのだ。
二つ目の理由は、オーナー経営者の子息は、若い時から会社の外に出る機会が保障されている。業界団体の青年部活動であったり、地元の経営者組織の青年部の活動などである。様ざまな機会に、同年代の同業種や異業種の同じような立場の人たちと交流することができる。また、セミナーなどで著名な講師の話を聞いたりもする。要するに会社の外で多くの人と接することができ、仕事に直接的な関連はないとしても、様ざまな知識を学ぶ時間が保障されている。つまり知見を広げる機会が与えられているのだ。
一方、一般の社員はどんなに優秀であったとしても、与えられた仕事に専念しなければならない。外部の研修などを受ける機会が与えられても、それは仕事に直結する実務的な研修などがほとんどである。
このような違いが、時間とともに大きな差になってくる。つまり、一般社員の場合には、オーナー経営者の子息よりもポテンシャルが優れていたとしても、潜在的な能力を伸ばすことができる可能性が低いことになる。実務的な面では能力を高められても、広い視野からの判断力といった点では、時間とともに子息よりも劣るようになってきてしまう。
これは中小企業であっても、もったいない話だ。
ここからいえることは、子息も、若い優秀な社員も、積極的に会社の外に出しなさい、ということである。そのことが、いずれは企業のマンパワーになってくる。
ところが、なかには子息でさえあまり社外に出さない経営者もいる。現場に専念させ、実務に精通するように育てることが本人の将来のために重要だという錯覚である。これは小規模企業によくみられる傾向だ。もちろん、会社に入って間がないのであればそれでも良い。しかし、ある程度の経験を積んだら、積極的に会社の外に出し、様ざまな人と触れあうことを通して、広い視野が持てるようにすることが必要だ。そうしないと、社長を継承しても先代社長と同じような企業規模から脱することができない。先代社長を超える経営者に育つことができず、企業も単純再生産を繰り返すことになってしまう。
また可能ならば、優秀な若い社員にも、できるだけ社外に出して視野を広げ、経営を学べるような機会を与えることが、企業の将来にとって有益である。
そして、客観的に能力を見極め、企業のために適所と思われるポストに就けるのがよい。