第1回 シン・ゴジラ

 去年の映画の印象を思い返してみると、『シン・ゴジラ』と『君の名は。』のイメージが凄く強いんです。残念ながら『君の名は。』は未見なので、もっぱら僕の中では『シン・ゴジラ』の年という感じでした。

 この『シン・ゴジラ』と『君の名は』には面白い逸話があって、1954年公開された元祖怪獣映画『ゴジラ』も『君の名は』という映画に興行収入で負けているという事なんですね。『ゴジラ』は1954年11月3日公開で、『君の名は(第三部)』は1954年4月27日公開。厳密に言うと『シン・ゴジラ』が2016年の7月29日公開で、『君の名は。』は8月26日公開だったので、実は63年前と公開順が逆だったり、昔の『君の名は』は三部作の最終作だったりと、細部に差異はあるのですが、それでも面白い話です。

 元々ラジオドラマとして始まった『君の名は』ですが、恋愛要素を打ち出してから人気を博し、映画化やドラマ化がされていくのですが、僕は個人的に一番最初の『ゴジラ』も怪獣の出てくる恋愛映画だと思っています。

 インパクトのあるゴジラではなく、芹沢大助博士の視点から観ると、山根恵美子に対する偏愛を貫き通したストーリーになっているんです。

 そう考えると1954年当時の『君の名は』も『ゴジラ』も戦時下の恋愛を描いた作品なんですね。ゴジラは存在そのものが戦争の象徴みたいなものですから。それが、かなりの時を経て同タイトルの映画が公開され、どちらも大ヒットする……Twitter等の反応では大方「すごい!」「面白い偶然」みたいな受け止められ方だったようですが、僕はちょっと怖かったのを覚えています。シンクロニシティというやつなんでしょうかね。

 いきなり余談から入ってしまいました。
 皆様どうも初めまして。申し遅れましたが、私、キョウキ・カンバーバッチと申します。ふざけた名前ですが、本名です。いえ、嘘です。君の本名は?ナンツッテ

 普段はシールコレクターとして活動しているのですが、訳あって今回からドラEVERさんのサイトで映画コラムを連載する事になりました。どうぞよろしくお願いいたします。

 私は本業の映画ライターという事でもないので、『えいがかんそうぶん』という、小学生でも読めるようなタイトルを付けてみましたので、気軽に、暇つぶしに読んでいただけましたら幸いです。

 さて、それにしても『シン・ゴジラ』、熱かったですよね。ゴジラの放った放射熱戦が東京だけでなく、日本中を焦土と化してしまったかのようです。今年の3月22日には、レンタルや動画配信サービスでもリリースされましたので、去年観ていなくても新たに観た方、再見した方も多いのではないかと存じます。

 私は去年の8月5日、帰省中の弟と映画館へ観に行きました。

 映画はとても好きなのですが、時間通りに映画館へ行く、というおそらく簡単な事が性格的に難しい私は(だって、その時間にその映画を観たい気分になる事なんて、滅多にないでしょう?)、強く「観たい」という内なる衝動がないと中々映画館へ行けないのですが、もうその頃には評判も聞きしに及んでおりましたので、「これは是非とも映画館で観なければいけない」という妙な使命感に燃えていた事を覚えています。

 『シン・ゴジラ』凄かったですねぇ。

 監督は『新世紀エヴァンゲリオン』等で知られる庵野秀明さん。数あるアニメ映画の中で個人的にベスト3に入る『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を監督された方で、『シン・ゴジラ』以前にも長編実写映画作品を3本手掛けています。実写映画初期の『ラブ&ポップ』と『式日』は特に好きで、『シン・ゴジラ』でも多用された実相寺アングルを思わせる撮影方法をこの頃から使用されておりました。

 実相寺アングルと言うのは『ウルトラマン』等の監督で知られる実相寺昭雄さんの映像手法で、最も特徴的なのは被写体とカメラの間に物を置き、印象的な絵作りをする事。これは生放送のドラマ等で撮影機材を隠す為に始めたそうなのですが、とても良い効果があるんですよね。

 後から『シン・ゴジラ』の踏切で逃げ遅れてしまったおばあちゃんを演じていたのが、その実相寺昭雄監督の妻である原知佐子さんだったと知って、本当にお好きなんだな、リスペクトされてるんだなと妙に感心してしまいました。

 庵野監督は、ご結婚された後に発表された『キューティーハニー』以降、実写作品からは離れておられましたが(結婚された事で芸風を変えたとインタビューで語ってましたね)、まさかこのような形での復帰になるとは思いもよりませんでした。

 優れた作品の多くは、過去作へのリスペクトがありながらも、そのどれをも凌駕するものだと、僕は常々思うんですね。

 映画を観た後、
「これはあの映画と同じだな」
「こういう表現見覚えあるな」
 って言う事は、映画を多く観れば観る程、大抵の映画を観ると感じてしまうのですが、勿論、それは仕方がない事だったりするんです。

 そういう表現って悪い事ばかりじゃなくて、安心感だったり、共感を覚える表現でもあったりする訳だし、表現方法としてその映画にベストチョイス、ベストマッチしてる場合がほとんど。

 でも、何年かに1度、誰も観た事がない作品が出てくる。

 どこかで観たような、頭の中に思い描いた様な表現はあっても、それら総てを凌駕している映画です。

 『シン・ゴジラ』はそういう映画でした。

 現実に怪獣・或いは、現実に存在しない物が現れたら?
 という作品は、日本では主に特撮系の映像作品で、多く制作されてきました。

 いくつか例を上げてみましょう。

 2000年に放送された『仮面ライダークウガ』は、"未確認生命体"と呼ばれる怪人が1年間、首都を中心に出現し、それを警察が"クウガ"と共闘して駆除に当たるというお話でした。放送中は場所だけでなく時間も表示され、リアルタイムに事件が進行し、本当に"未確認生命体"による事件が起こっている体験を視聴者に提供しました。

 少し日本的ファンタジーに偏りますが、同じ制作陣による『仮面ライダー響鬼』の前半も、"魔化魍"と呼ばれるいわゆる妖怪が日本各地に古来より実在していて、それを身体を鍛えた戦士"鬼"が退治していくという物語で、彼らをサポートする民間の団体"猛士"の存在等、出来る限り現実に即して描かれていました。

 また、映画としての評判が良くないのですが、実は今回の『シン・ゴジラ』は松本人志監督作品の『大日本人』に通じるところがあり、この作品も、日本では古来より"獣"と呼ばれる巨大生物が暴れ回るので(怪しいわけではないので怪獣とは呼ばれないという設定)、それを退治する為、特異体質で電流を浴びると巨大化し"大日本人"になれる家計に生まれた大佐藤大が、国の依頼を受けて防衛する、という物語でした。

 また、初出は小説ですが(後にTVドラマ化。『シン・ゴジラ』にも登場する松尾諭さんがレギュラー出演されています)、山本弘先生の『MM9』の存在も忘れてはなりません。
 こちらはもろ、怪獣を自然災害と定義して、国によって正式に作られた、国家公務員として怪獣に対処する部署がある話です。

 斯様にして、これまで現実世界に怪獣的な物が現れたら? という作品は幾つか作られてきましたが、『クウガ』を除く大半の作品は、すでに対策が講じられている世界でのお話です。

 ですがこの『シン・ゴジラ』は、それまで怪獣が登場した事などない、今の、現実の日本にゴジラが出たら? を、前半部分はかなり究極的なリアリティを以って描いている類稀な作品となっています。

 ポリティカル・フィクションと言えば政治を扱ったフィクションを指しますが、『シン・ゴジラ』の前半部分はまさにそれで、怪獣が現れた、という不足の事態に対して慌てふためきながらも、何とか対策を立てていこうとする日本政府の姿が描かれます。

 私は東北の片田舎に住んでいて、その体験した影響もあるのかも知れませんが、今回のゴジラは原子力や放射能云々よりも、地震や津波のメタファーなのではないかと、感じました。

 第2形態のゴジラが上陸し、街を破壊する際の、うねうねと気味悪く川が逆流して、船が押し戻され、街が破壊されていく様は、あの時自分が体験した事そのものです。

 誰も観た事がない映画、というのは一つ、誰もが体験した出来事をも超えた、その先にあるものなんじゃないかなって、ちょっと思うんですね。

 だから『シン・ゴジラ』を観た当初は、これは東日本大震災以降に作られた、紛れもない日本映画なんだと、痛感しました。

 こちらの話を広げると少し辛い部分もありますので、話題を変えますね。

 とにかく、いろいろな人への目配せが効いた作品になってると思います。

 世の中にはいろんな人がいて、政府を応援したい人、批判したい人、震災を体験した人、遠くから観ていた人、これまで多くの怪獣映画を観てきた人、特撮作品を観てきた人、そして、観てこなかった人、受け手はたくさんいるんです。

 何が凄いのかと言えば、そうした、総ての人に対して「何か言いたくなる」作りに『シン・ゴジラ』がなっているところが驚異的なんです。

 1995年、後に『平成ガメラ』シリーズと呼ばれる『ガメラ 大怪獣空中決戦』が封切られた時、そのあまりの出来栄えの素晴らしさに、
「ゴジラは?」
 と感じてしまいました。

 それはゴジラに、伝統は感じても進化を感じなくなってしまったからです。

 2014年に公開された正統派のハリウッド版『GODZILLA』が登場しても尚、日本でゴジラは沈黙したまま。

 『シン・ゴジラ』は平成ガメラシリーズよりも更にリアルで、そのリアルさを極める事で、ハリウッド映画では絶対に作る事が出来ない日本映画の底力を見せてくれました。

 それでいて凄いのが、しっかりと庵野秀明監督作品になっているところがまた恐ろしい。

 前述した『ラヴ&ポップ』や『式日』と映像手法のベース、演出手法の根本は変わっておらず、それでいて庵野監督のこれまで作ったアニメの雰囲気まで感じてしまう。それはおそらく、アニメや実写というカテゴリーに囚われる事なく、頭の中にハッキリとしたヴィジョンがあって、それをそのまま表現しているからなんだと思うのですが、それがどんなに難しい事であろうかは言うまでもない事です。

 考えてみれば『エヴァンゲリオン』もアニメの中に実写的な表現を持ち込んだものだったり、『シン・ゴジラ』を撮る為のプロモーションビデオになってしまった感すらある『巨神兵東京に現わる』も、実写でありながら昔ながらの特撮を駆使し、アニメと実写の中間にあるかのような作品でした。

 『シン・ゴジラ』は、そうした監督が過去に手掛けた実写作品で観られたような表現が用いられ、更には『エヴァ』で使用された音楽が再使用されるなど、まるで過去作品を集合させたかのような作品に仕上がっています。

 凄まじい情報量で、あらゆる人に一過言持たせる、放射熱戦並みの熱量を持った映画である事は間違いありません。

 ところで、『シン・ゴジラ』は後半、急にいつもの怪獣映画になります。

 ゴジラの活動を止める為、政府はヤシロギ作戦を発動します。

 その作戦内容が、ゴジラの口の中に直接薬を投与するというものなのですが、言ってみれば、ちょっと現実的には弊害が多すぎる作戦が行われます。

 瓦礫がたくさんあって、車両はそう簡単に通れないのでは?
 急に出て来た在来線爆弾って何なの?
 こんな成功率の低そうな作戦ってある??
 いくら他国が干渉して来そうだからと言っても、無理のある展開が続きます。

 しかしそれでも尚、観れてしまうのは、前半の異常なまでのリアルさと、そして、この作戦自体が、日本人の、日本人による、復興をモチーフにしているからに他なりません。

 ああいった体験をしてきたからこそ、知らず知らずのうちに視聴者は、応援してしまうのです。

 奇跡を望んでしまう。

 憶測で申し訳ないのですが、庵野監督って、普段はこのタイプの人ではないような気がします。

 『巨神兵東京に現わる』何かを観ても分かる通り、壊すまでが全力、壊すのが楽しい人のようにも思えるんです。

 『シン・ゴジラ』も、ゴジラが放射線を吐き、東京が壊滅状態になる、あの絶望、凄まじさ、カタルシス。何とも言えない迫力があります。

 しかしその後は、どうにも照れがある。

 壊滅以降のゴジラとの戦いは、あえて「怪獣映画ってこうだよね」という風にした、とも見えなくないのです。

 そもそも第2形態登場時、突然現れたCGの"怪獣"は、まるでわざとのように着ぐるみっぽいチープさを残していました。

 どこかで庵野監督は「これは怪獣映画だよ」と照れ隠しで、弁明するようにして言いたかったのかも知れません。

 『シン・ゴジラ』は、庵野監督のこれまでの作風からは意外な、ものすごくストレートな「日本頑張ろう!」っていう映画なんです。

 『シン・ゴジラ』はそういう、なんかいろいろ詰まった凄い映画でした。

 僕がこの映画で最も好きなシーンは、作戦が成功した後のリアクションです。

 ハリウッド映画、いや、並の日本映画でこういう場面があったなら、全員スタンディングでガッツポーズをしたり、大声をあげたり叫んだり、泣き出す人までいそうですが、『シン・ゴジラ』では皆「ほっ」として、静かに成功を労んです。そこが凄く良くて、映画の本質が描かれてる素敵なシーンだと思います。

 他にも、落ち葉拾い的ですが、好きなシーンがあるのでご紹介しますね。
 それは、第2形態がバーンといきなり画面いっぱいに大写しになって初登場するところ。
 あそこで僕は思わず「かわいい!」って声が出ちゃったんですけど、世間的には気持ち悪い、みたいで、一緒に観に行った弟もそう言ってました。
 目の感じとか、かわいいと思うんですけどね……。

 それから、高橋一生さんがある事を発見して、興奮し大声上げてくるくるするところ。
 あそこも、普通それまでの演出なら、監督注意しそうなものですけど、そのままオッケーしてて、懐が深いなぁ、と。

 後、ゴジラの発端が、とある科学者の妻への愛情だったところが、冒頭も書いたように、初代『ゴジラ』を芹沢博士の恋愛映画と捉えている自分にとって、凄く共感したところでした。

 細かく気付いた事を書いていったらキリがない映画です。情報量が多いですし、初見1回でこれですから、DVDで再見したら、また新たな発見がある事でしょう。

 最後に。

 僕はこの映画を「手」の映画だと感じました。

 何故第2形態のゴジラに手はなく、最終的なゴジラの手も、小さく、使用できるのかすら分からないような代物だったのでしょう?

 それは当然ゴジラが、人間の進化とは違う種類の生物である事をビジュアル的に表現している訳ですが、同時に、今回人間側が文字通り手を取り合ってゴジラという難関に立ち向かう事への暗喩であると考えられます。

 『シン・ゴジラ』は主要となる人物はいますが、一人だけが活躍するヒロイックな映画ではなく、日本人という群像が困難に立ち向かっていく映画です(劇中、主人公も自分の代わりはいるという趣旨の発言をする)。

 今回ゴジラに勝てた理由は、他でもありません。人間たちが"手"を組んだからなんです。

 さてそこで、観た方はラストカットを思い出してください。

 凝固剤で固まったゴジラの尻尾の先、ゴジラは単体でも増える事を予想されていましたが、その先は何やら、小さな歯や手のような物が集まっています。

 今回のゴジラはあんなに手を使わなかったのに、何故小さなゴジラたちには手のような物が、あんなに目立つように映し出されていたのでしょうか。

 それは、次にゴジラが目覚めた時、彼らはより進化して、今回ゴジラが敗れた直接の理由である、"協力する事"を覚えた、より人間に近い存在になっている可能性がある、という事を示しているのではないでしょうか?

 これは実に監督らしい、凄まじい絶望の様でもあり、また、庵野監督なりの、また何かあるかも知れないから人類は気を抜いちゃいけないよね、という、虚構を通した現実へのメッセージなのかも知れません。

 思う事ある映画かと存じますので、是非。

 そんな訳で、こちらからは以上です。