第二回 ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー
第2回 ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー
ドライバー求人サイト、ドラEVERをご覧の皆様こんにちは。或いは、こんばんは。
窓辺のマーガレット、キョウキ・カンバーバッチです。
今回の映画感想は映画としては初の『スター・ウォーズ』シリーズのスピンオフ、『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』について書いてみようと思います。以下、多分にネタバレを含みますので、未見の方はその点ご注意の上、続きをお読みくださいね。
大雑把にストーリーをご紹介いたしますと、『ローグ・ワン』はタイトル通り名もなきはぐれ者(ローグ)たちの物語なんです。
ルーク・スカイウォーカーのような"ジェダイの騎士"でもなければ"シスの暗黒卿"でもない、普通の人々の活躍を描いた物語です。言ってみれば(……例えとして伝わるか分かりませんが)缶コーヒーのCMみたいな感じで、歴史に名の残らない"誰か"が銀河を救う手助けをしていた……そういうお話なんです。
だから、日々忙しく、ドライバーとして働いている皆様にも共感するところはあるかも知れないですね。ちょっと大袈裟ですけど、運んだ荷物が巡り巡って、どこかで誰かの命を救っていた、たまたまヒッチハイクで人を乗せたらその人を事故から救ったりと、知らずに運命を変えていた……そんな事もあるかも知れません。
そういう事は歴史に残りませんが、物語として語り継がれていくものです。
だからこそ、この『ローグ・ワン』は『スター・ウォーズ・ストーリー』、物語なんですね。歴史として語られる事のない、あくまでも物語。ですが、その"お話"が傑作だったんです。順を追って、どう良かったのかを色々と書いてみたいのですが、今回はこのお話をする前に、『ローグ・ワン』を観た時に映画館で起こった"お話"をさせていただきたく存じます。
僕は普段、映画は字幕で観るようにしてるんです。 日本の吹き替え技術はトップクラスですし、アメリカでも外国語の映画を吹き替えで観るのは当たり前の事。気軽に観る事が出来ますからね。僕もレンタルやNetflix何かで視聴する場合は吹き替えを選ぶ事がほとんどです。
しかし、映画館ではそういう訳にはいきません。
何故なら、吹き替えを選ぶと、子供が観に来ちゃうから。
『スター・ウォーズ』の本編をご覧になった事がある人はご理解いただけるかと思いますが、ジェダイの騎士にライトセーバーや多種多様な異星人、戦艦等、子供の気を引くアイテムは多数登場する『スター・ウォーズ』シリーズですが、案外と話は難しかったりします。例えば、いざこざの理由を説明しているシーン何かは、きっと退屈に思えるでしょう。通商連合がどうしたとかこうしたとか、子供には理解不能です。
退屈すると子供はすぐに騒ぎます。
そして僕は映画館で騒ぐ人を、例え子供でも許す事が出来ないのです。
だから、子供が観に来る可能性のある吹替え版を僕は観ない、と、そういう事なんですね。
少し話は違いますが、アメリカでは映画館のグレードによって映画のチケット代が変わります。ぼろい施設の映画館はチケット代が安くなるのです。しかし、日本は一律、どの映画館で観てもチケット代が変わる事はありません。3Dや4Dで観れるから、という理由で価格がアップする事はありますが、施設が理由で低くなる事はないんです。
言ってみればそれは誰でも差がなく映画を楽しめるという事でもあるのでしょうが、では映画館で騒ぐ人がいたたまたま同じ劇場に居合わせた場合はどうでしょう? 地獄です。せっかくの感動が台無し、全員同じ料金で入っているのにも関わらず、ちょっと損した気分にはならないでしょうか?
真に映画を愛しているなら、そんな事に動じず集中すれば良いのかもしれません。ですが、まだまだパダワン(ジェダイの騎士の修行中の身分)の私は、その域に達していないのです。
好きな映画を滅茶苦茶にする輩が、ただただ許せない。
これを防ぐ対抗手段は今のところ、子供のように騒ぐ人がいないであろうと予想される字幕版を観る以外にないのです。字幕版であれば、少なくとも文字が読める人が集まる、或いは、もしや英語等の外国語も理解できる人たちが集まる訳で、騒ぐ人がいる確率を格段に減らす事が出来ます。子供や、子供のような人は字幕読めませんからね。そして統計的な事実から、これはちょっと経験として正しい事のように感じています。
しかし、私はその時、時間がなかったんです。
行ける時間がどう考えても、その、数時間後に差し迫った吹替え版だけでした。
まぁ『スター・ウォーズ』だし、とにかく観たいし、大丈夫だろう。それは、根拠のない理由でした。
映画館で私の後ろに座ったのは、小学校の低学年ぐらいであろう兄弟を連れたおばさんでした。具合が悪いのか、マスクをしています。上映前から兄弟は、少し喋ったりして、非常に不安でしたが、それでも映画が始まれば静かになるだろう……そう私は高を括っていたのです。
しかし、その希望的願望はあっさりと裏切られました。どこのシーンでしたかハッキリは覚えていませんが、兄弟のうちどちらかがビックリしたのでしょう。私の椅子を驚いた拍子に蹴ったのです。それぐらいなら良くある事で私も気に止めませんが、どうも兄弟たちにとっては退屈だった事もあり、それが面白く感じたようで、何かあるたび座席を蹴るようになってきたのです。それがとても巧妙で、ずっとではなく、思い返したかのようなタイミングで蹴って来る。非常に不快です。母親は何をしているのか、気が付いていないのか。振り返ると、母親は咳を始めました。そもそも、咳が出る状態で映画に来るなんて……よくよく考えてみればこの母親にも多少常識が欠落していたのかも知れません。周囲の迷惑等考えてはいないのでしょう。
子供たちのその細やかな遊びは、映画が終わるまで止まる事はありませんでした。
控え目に申し上げても殺意に似た感情を隠せない私でしたが、映画上映中に立ち上がり憤怒の感情をぶちまけては、その他の観客を不快にする事は目に見えています。ここは私が我慢すれば良いのだ。グッとこらえて映画終了後にそっと注意すればいい。誠心誠意話せばきっと子供たちも改心し、謝ってくれるに違いない。そう思い込む事で、何とか必死に映画に集中した私は、『ローグ・ワン』自体が傑作だった事もあり、最後は涙など流しながら、エンドロールの余韻に浸っておりました。
嗚呼そうだ。エンドロールが終わったら、子供たちに映画館のマナーを伝えるんだった。そう思って振り返ると、最早そこには誰もいません。私ははたと気付くのです。映画をまともに観る事すらできない家族がエンドロールを最後まで観る事の意味など理解している筈がない、と。
個人的にエンドロールは、感動で泣いてしまった時の涙を拭く時間であったり、映画について余韻に浸ったりする、最良の時間だと思っています。
しかしその最良の時間も、何だか釈然としないものになってしまいました。
このような体験をしてしまうから、映画は字幕で観るしかない、と私は断言せざるを得ないのです。
そればかりか、今の日本の映画業界とは真逆の意見となるでしょうが、大人だけが入って良い時間、というのを各映画館を企画してはどうかとすら思うのです。
映画のヒットで重要な要素の一つに、家族連れで観てもらう、という事があります。当たり目ですが、単純に一人で観るより多くの人が見に来るからです。だからレーティングを下げ、全年齢が観る事が出来るようにする為、映画を売る側は必死になります。結果として、過激な暴力シーンや、残酷なスプラッタシーン、そしてエロはおろか、おっぱいの一つも映画には登場しなくなってしまうのです。ヒットの安全を得たいがために、表現が自然と規制されてしまう。これは映画が平凡で詰まらなくなる要因の一つでもありますし、何より、大人の鑑賞に耐える作品が減る事で「こんなものか」と映画を大人が観なくなる、という悪循環を引き起こしてしまいます。
映像作品は氾濫していますが、TVはご存じの通り規制だらけ。お金を払って観に行く映画もそれと変わらなければ、そりゃネット配信のサイトに視聴者は流れていってしまいます。
だから今こそ"大人の映画時間"的なものを作り、あえて子供が入れなくする事で良質の映画を制作していくという事は、目先ではなく将来的に考えたらよい事のようにも思うのですが、いかがでしょうか。理想論に過ぎないでしょうか。
まぁ最も、最近は振り切って面白い映画を作ろう、と尽力している作品もちらほら見受けられますので、私がそこまで心配する事の程でもないのかも知れませんが……。
さて、映画館での小さいならず者の話をしたので、思いっきり『ローグ・ワン』から話がそれてしまいました。ここから強引に『ローグ・ワン』の凄いところを言うとするなら、そういった邪魔の激しい劣悪な環境で視聴したにもかかわらず、私は最後号泣した、という事実があります。これはこの映画の素晴らしさを如実に物語っているのではないでしょうか。
『ローグ・ワン』は『スター・ウォーズ』シリーズでも傑作だと思います。
フォースの存在をハッキリとは描いていないのに、全体を通してみるとフォースがしっかりと流れている、そんな印象を受けました。
話がそれたついでに、また別のお話をさせていただきます。
ケビン・スミスという監督の長編デビュー作に『クラークス』という、コンビニを舞台にした会話劇を主体とした映画があります。このケビン・スミスというお方、『スター・ウォーズ』の熱狂的なファンとして有名で、自分の作品のほぼ総てに『スター・ウォーズ』を元ネタとした要素が登場し、遂には『ジェイ&サイレント・ボブの復讐』という自身がサイレント・ボブ役で主演を務めた映画では、ルーク・スカイウォーカーを演じたマーク・ハミルとライトセーバーで戦う、という雄姿を見せてくれます。公私混同、ヲタクの鑑ですね。
その『クラークス』に『ローグ・ワン』でも関連深いデス・スターについての興味深い会話が登場します。
かいつまんで内容を話しますと、
最初に作ったデス・スターが破壊された時、帝国側の人間しかいなかった。しかし、2つ目のデス・スターは建造中だったので、帝国の人間だけでなく雇われた一般の作業員がいた筈で、反乱軍のテロ活動でそういう罪のない人々も大勢死んだ。
というもの。
確かにそれには頷けます。面白い視聴です。
このシーンには続きがあって、そこに居合わせた屋根職人がマフィアの依頼を断った自分の体験談を元に、帝国が嫌だったら職人は仕事を断る筈で、そこにいた職人たちは自業自得だった。報酬よりも信念に基づくべきだった、と話して終わります。
この会話の面白いところは、歴史に残らない筈の人々の存在を感じ取る事が出来る事だと僕は思います。
考えてみれば、デス・スターは不思議な兵器です。
帝国が威信をかけて建造した星を破壊する兵器は、完成すれば誰も帝国に逆らう事ができなくなる戦局が決定的になる威力を持っています。しかし何故その最重要施設が、ミサイル一発撃ち落としただけで大爆発を引き起こし大破してしまうのか、何故そのように貧弱な作りだったのか、どう考えても整合性の取れない、ある意味でご都合主義の設定とも取れる、『スター・ウォーズ』史上最も大きな謎の一つでした。
デス・スターの弱点がそのまま、『スター・ウォーズ』シリーズのリアリティを削いでしまう弱点となっていた訳ですね。
『ローグ・ワン』は文字通り、そのデス・スターの弱点を見事に克服してくれました。
主人公ジン・アーソ(演じるのは自前で『時計じかけのオレンジ』のアレックスのような逆さ睫毛を持つフェリシティ・ジョーンズ)は、幼い頃帝国の手により両親と引き裂かれてしまいます。反乱軍『パルチザン』を率いるソウ・ゲレラに育てられたジンは過酷な生活を強いられ、成長した頃にはすっかり生きる為に何でもやって来た感の強い女性になっていました。
ある日、ジンの父ゲイレンは、デス・スターの弱点を帝国軍の一員であるボーディーに託し、ソウの元へ送り込みます。ゲイレンは妻を殺され、娘と引き裂かれた事をずっと許せず、帝国軍に協力するふりをしながら、密かにデス・スターに弱点を仕込んでいたのです(!)。
だからあんな弱点があったのか!!!
思わず膝を打っちゃいますね。
ゲイレンは科学者として優秀で、デス・スター建造になくてはならない人物だったようで、おそらくほぼ総ての指示をしていたのでしょう。だから他の科学者たちにも気づかれる事はなかった。これはもう後付け以外の何でもないのでしょうが、例えそうだったとしても、そこにドラマを生み出せるなら立派なものです。それが素晴らしいものであれば尚更。
ジンがゲイレンの娘である事を知った反乱抵抗軍は彼女を利用してソウへの接触を図ります。
その中でジンは自分の運命を悟り、デス・スターの弱点を入手する為自ら戦闘に赴く事を決めるのです。
危険な任務である事と、反乱抵抗軍の十分な支援を得られなかったジンたちは少数精鋭でデス・スターのデータがある惑星スカリフに向かいます(仲間たちも個性的で良い感じ)。フォースの導きとも取れる奇跡に助けられながら、彼女たちはその命と引き換えに使命を果たします。
たくさんの友情や、ジンとゲイレンの親子の愛情(それを確かめるシーンが切なくなる程短く、言葉も足りない。そこがまた良い)等、今私たちはこれを観る事で知る事が出来ます。ですが、彼女たちの活躍が歴史に残る事はありません。
せいぜい、遠い星の物語として伝えられるぐらいでしょう。そこがまた何とも言えない切なさでグッとくるんですよね。
監督はギャレス・エドワーズ。彼の長編監督作品は『ローグ・ワン』以前に2本しかない事もあり総て拝見しています。
デビュー作『モンスターズ/地球外生命体』は低予算を逆手に取り肝となるモンスターを隠す演出で、逆にモンスターの不気味さや存在感を際立たせ、男女2人のロードムービーを特別なものにしていました。
その演出が評価され大抜擢された『Godzilla/ゴジラ』は、『モンスターズ』とは一転して、骨太な堂々としたゴジラの姿を描き切り怪獣王をハリウッドに甦らせることに成功しています。
どちらも怪獣の存在を異なるタッチで効果的に描きながら、登場する人物たちのドラマ、心情もキッチリ描いた素晴らしい作品です。監督の才能はこの2作を観れば明らかで、更なる大抜擢となった『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』も傑作に仕上げています。今後も大注目の監督である事は間違いありません。
『ローグ・ワン』は『スター・ウォーズ』シリーズでも屈指の出来栄えで、私は個人的に『帝国の逆襲』と『シスの復讐』がシリーズでお気に入りですが、『ローグ・ワン』も同じぐらい好きです。この3作に共通するのは悲劇的な結末である事。
『スター・ウォーズ』の第1作目が公開された当初のハリウッドは、アメリカン・ニュー・シネマと呼ばれる暗い作風の映画が多く作られている時期で、『スター・ウォーズ』は退屈な映画から離れていた若者たちの心を掴み、空前の大ヒットとなりました。
暗い映画ではなく、空想に全力を注いだ明るい結末の映画は、当時の人々に待ち望まれていたものだったのです。
『スター・ウォーズ』は当時の時代ともマッチして爆発的に広がり、熱狂を生み、一つの文化となったんですね。
ただ『スター・ウォーズ』の真の価値は2作目の暗さにあると思うんです。同じように、明るい結末の2作目だったら、きっと『スター・ウォーズ』は浮ついた映画のままだったでしょう。現在まで続く深みのあるシリーズになったかどうか。
後から分析する事は出来ますが、当時は熱狂の只中にいた筈で、その中で暗い『帝国の逆襲』を生み出したのは偉大な事なんです。
さて『ローグ・ワン』は、ジンたち亡き後もほんの少し映画は続きます。なんと、『スター・ウォーズ/エピソード4 新たなる希望』のスタート直前なのです。僕はそれを知らずに映画を視聴したので、心底驚きました。
ベイダー卿が大暴れ!
赤いライトセーバーを振り回し、反乱軍兵士たちを斬り殺す姿はまさに悪魔そのものです。
反乱軍たちの必死の抵抗で、何とかデス・スターの機密情報は死守され、それは2体のドロイドに託されます。後は皆様、ご存じの通り。
単なる欠けていた部分を補完するだけの映画なら、ここまでの感動はないでしょう。しかし、ギャレス・エドワーズの確かな演出により、登場人物たちは端っこに登場する異星人たちにまで血が通い、稀有な傑作となりました。
おそらく少し前に公開された『フォースの覚醒』と様々な面で比較されるのではないかと思います。キャラクタ一つとってもそうです。どちらも女性主人公であり、どちらも幼い頃から一人で生きてきた強い女性と、共通点があります。
しかし、この2人から感じる印象はまったく逆ですね。
『フォースの覚醒』のレイは、選ばれた運命を持つ強さを感じますが、一方のジンは、強さを秘めながらもどこか影を纏っています。それは伝説に残る人間と、市井の人との差なのかも知れません。私たちは大半が市井の人間です。
でも私は思うんです。どんな人間でも、生きていれば2時間分の映画が作られるような、輝く瞬間を人生のどこかで得られるのではないかと。
それは映画のコラムを書いている僕もそうだし、ドライバーとして何かを運んでいる皆さんもそうです。ジンと同じように輝く事が出来る。
勿論、彼女の結末は悲劇的なものでしたが、映画には様々なジャンルがあります。悲劇もあれば、喜劇もある。アクションやSFは無理だけど、普通のドラマみたいな出来事が、いつ舞い降りて、いつ主人公になるとも分からないのです。
例えば、僕の椅子を蹴った男の子たちに私が注意をしていたら?
そこで何かが変わっていたかもしれません。
外で待っていた自由業風の強面のお父さんにどこかへ連れられ、キツイお仕置きをされていたかも知れません。
この世は何が起こるか分からない。結末を知って、皆で体感できるのは映画だけです。
そんな映画を観て気が付く事は、映画の登場人物たちは皆、自分で何かを決断して、何かに向かっていくという事。デス・スター建造中に抵抗軍の手によって殺された職人たちも、自分で選んだ結果そうなったんです。
『ローグ・ワン』には、英雄になれなかった、『スター・ウォーズ』の正史に入れなかった人たちの活躍が描かれています。多分きっと、だからこそ、それがかえって私たちの心を打つのだと思えるのです。
世の中、後から考えたら不思議なめぐり合わせみたいなものでいっぱいです。フォースの導きじゃないかと思えるような事ばかり。主人公になりたいなら、輝きたいなら、そういうチャンスを敏感に感じ取って、時にはならず者のように生きてみるのも、良いのかもしれませんね。
そんな訳で、こちらからは以上です。
……文章中書く事が出来なかったので追記いたしますが、本作には"ウィルズの守護者"と呼ばれる2人の戦士が登場します。一人は盲目の棒術使いチアルート。もう一人は重火器を巧みに操るベイズ。帝国軍のドロイドを書き換えた思ってることを何でも口にしちゃうK-2SOと並んで本作では人気のあるキャラクタかと存じますが、そのうちの一人チアルートを演じたドニー・イェンさん。私大ファンなんです。香港のカンフー映画は勿論ですが、『ブレイド2』でのアクション指導や演じたスノーマン(スケジュールが合わず最期のシーンを撮れなかっただけなのに、劇中生死不明というお得なキャラ)で決定的に好きになりました。
感情をそのまま殺陣に組み込んだかのようなアクションシーンを作らせれば彼の右に出る者はなく、近年の『イップ・マン』シリーズは、まるで晩年のピーター・セラーズの『チャンス!』にも似た穏やかさまで手に入れ、益々円熟の極みにあります。
本作の出演が決まるまで『スター・ウォーズ』を観た事がなかったそうで、変に思い入れがない分、「盲目のキャラにしたい」等の案を提案し、それは見事に採用されオリエンタルなフォースの導きをより感じさせる事に貢献しています(これも奇跡!)。
ドニーさんにはそこまでの事ではないのかも知れませんが、アジア圏の俳優がフォースを伝導するかのような役柄を演じられた事はとても嬉しく、映画館で鳥肌が立ったのを今でも覚えています。彼のアクション映画の凄さについては、いつか語ってみたいものですが、それはまた別の機会に。