第7回 アウトレイジ 最終章


第7回 アウトレイジ 最終章

 ドライバー求人サイト、ドラEVERをご覧の皆様こんにちは。或いは、こんばんは。
 窓辺のマーガレット、キョウキ・カンバーバッチです。

 この原稿を書いている日の事で申し訳ないのですが、今、外は激しい雨が降っています。台風が近づいているとかで、全国的に雨模様の様です。こういう時、ドラEVERさんで連載を持ってる身としては「雨だなぁ、ドライバーさんは仕事大変だろうな」って思ってしまいます。

 ドライバーの求人サイトで連載している僕ですが、正直に告白いたしますと、もう20年来のペーパードライバーなんです。元来出歩かない性格なので、車を必要とする場面がこれまでほとんどなく、そもそも運転自体も目も当てられない程のド下手で、苦手意識からか何となく遠ざかり遂にはペーパードライバー歴が成人するという有様。

 そういう人間にとっては雨の中走行する、というだけで本当に驚異的で芸術的な出来事でございまして、ただただ感嘆し、ドライバーの皆様を尊敬するばかりであります。ドライバーの皆様におかれましては、運転技術は、程度の違いこそあれ簡単なものと思われるかも知れませんが、それもままならない運動音痴の人間が世の中には少なからず存在するんですよ。ですからドライバーの仕事ができる、という事は大袈裟な言い方かもしれませんが、凄い事なんです。

 さて、前置きはこのぐらいにして今回の話題です。

 先日『アウトレイジ 最終章』を観て参りましたので、今日はその感想でございます。

 せっかく連載をいただいているので、最新映画の感想を書かなくちゃ、と張り切って映画館へ行って参りました。

 この作品R-15指定でございますので、かまびすしい子供も皆無。快適な映画館でございました。

 ここから先、『アウトレイジ 最終章』のネタバレを含む記事になりますので、未見の方はご注意くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

 よろしいでしょうか? 始めますね。先ずこの新作『アウトレイジ』の話の前に、監督である北野武さんと私の関係性(と言ってもこちらサイドの一方的なものですが)をご説明申し上げなければなりません。一言で表現いたしますと、大ファンです。そればかりか、尊敬する人物の一人と言っても過言ではないでしょう。

 漫才ブームの記憶はさすがにありませんが(近年、某動画サイトなどで当時の映像を漁るように拝見しました)、『俺たちひょうきん族』に『天才!たけしの元気が出るテレビ』と、80年代90年代を代表するバラエティ番組は毎週欠かさず視聴しておりました。

 高校の頃に衝撃を受けた松本人志さんが登場するまで、私にとって(あえて親しみを込めて言うなら)殿は、好きな芸人さんの王という存在だったのです。

 ただ、個人的な話で申し訳ないのですが、私のバラエティが好きな本来の嗜好とは異なり、中高の学生時代は、私にとって暗黒期と言わざるを得ない状況でありました。明るい性格は影を潜め、暗く、じめっとした、世の中を斜に構えて見るような、今となってはほろ苦い、ちょっと忘れたくなるようなあの頃。

 北野映画に出会ったのは、そんな時でした。

 映画青年、映画少年だった私は、なるだけ人が観ていないような映画を観たくて近所のレンタルビデオ屋に入り浸っていたのですが、そこで最初に発見したのが『ソナチネ』です。

 実はその時まだ初監督作である『その男、凶暴につき』を拝見していなくて、監督第4作である『ソナチネ』が北野映画の初体験だったのですが、本当に度肝を抜かれました。

 何だこの映画は!

 それは当時の、僕の気分そのものの映画だったんです。死への憧れ、とでも言うのでしょうか。

 「死ぬことばかり考えてると、ほんとに死にたくなっちゃうんだ」

 そんな台詞も登場する本作ですが、とにかく日本映画の中でも傑作と言える映画だと僕は感じています。

 『ソナチネ』には凄くしっかりとしたストーリーがあるんです。ヤクザの抗争があって、それでビートたけしさん演じる小さな組の組長・村川が沖縄に逃げてくる。一緒に付いてきた舎弟と、現地で知り合った女の子も加えて一緒に遊んでると、殺し屋がやって来て命を狙われる。実は裏ではヤクザ間でいろいろあって、なぜ自分が命を狙われたかを知った村川は反撃に出て敵対勢力を一掃しますが、最後は自らの頭を撃ち抜いて死んでしまいます。

 ストーリーを文字で起こすと良くある話のようですが、その表現の仕方が凄い。まずもってセリフが少ないので状況説明がないのですが、画のひとつひとつに力があるので意味が分からない事がない。そして何より、全編にわたってどこにとは言えないのですが、そこかしこに不穏な空気が漂っている。

 死の雰囲気。死の視点。

 北野映画の主人公は皆、死に場所を探している人の話ばかりなんです。

 同系の作品では『HANA-BI』がありますし、『BROTHER』もそう。後から書きますが『アウトレイジ』も3作通して、主人公大友の死に場所を探す物語でした。ただ『HANA-BI』には『ソナチネ』にはない夫婦愛という確かな愛情が刻まれていて、『BROTHER』には兄弟愛を超えた国籍の違う舎弟との仁義が足されている分、観る人の捉え方によっては死に場所探しの映画以外の余地が残されているように思うのですが、『ソナチネ』はその部分の濃度が非常に濃くて、こんなにも鮮烈な印象を残す、それでいて静かな映画は他に類をみないんじゃないか? って気になります。

 みんな死にたくないと思う訳で、でも逃れられない死には、恐怖と共に魅力も感じていたりします。

 その、死という存在に憑かれたみたいな、とても安易な表現で言うと、狂った映画なんです。

 この魅力は筆舌に尽くしがたいものがありますし、実のところ10代の自分が感じたような気分で、今の自分が再度鑑賞した際、あの頃の気持ちを得る事が出来るかは非常に疑問が残るところでもあります。

 今僕は、できるだけ長生きしたいと思っていますからね。

 それはさておいて、こんな風にして僕はビートたけしも、そして北野武も大好きという、ミーハーな男になりましたので、その後の映画もほとんど追いかけています。『ソナチネ』という傑作をものにした後、突然ビートたけし名義で『みんな~やってるか!』という、カーセックスを夢見る青年の話を撮ったかと思えば(現金輸送車が燃えるシーンが大好き)、バイク事故後に『キッズ・リターン』というジュブナイルでありながら人生の暗部も描いた再生の物語を生み出し、初の時代劇となった『座頭市』(実は『みんな~やってるか!』にもちょっと座頭市っぽいシーンがあるのですが)では商業的にも成功を収め、日本を代表する映画監督の一人となりました。

 暴力であり、家族関係であり、ナンセンスギャグであり、そして時には自分自身であったりと、様々なモチーフを手掛ける監督ですが、いろいろ悩んできて、ファンとしては一念発起してあえて真正面からバイオレンス映画を撮ろうと決心して撮影に挑んだのではなかろうか? と推察してしまう『アウトレイジ』が遂に登場します。

 これもまた衝撃的な作品でした。

 現代に『仁義なき戦い』が甦った! と言うのが、第1作視聴後、初めての私の感想でした。私はヤクザ映画も好きで、特に『仁義なき戦い』もシリーズ総て観ているのですが、『仁義なき戦い』の生みの親である深作欣二監督降板から急きょ『その男、凶暴につき』を撮る事になった北野監督にとって、現代的なヤクザ映画、現代の『仁義なき戦い』を撮る事は特別な事だったのではないでしょうか?

 すっかり廃れたジャンルとなってしまったヤクザ映画ですが、『アウトレイジ』には確かに今ヤクザ映画作るならこうだろ? と監督が突き付けてくるような明確な回答がありました。

 続編である『アウトレイジ ビヨンド』は東日本大震災の件もあり、やや前作より暴力描写が弱くなっていましたが、ラストシーンの衝撃は忘れがたいものとなっています。

 さらに言えば2作目には面白い見方があって、もしかすると日本のお笑い芸人事情をベースにしてるのかな? と、ちょっと思える構図になってるんです。『ビヨンド』から関西系の組織が幅を利かせるようになるんですが、それが吉本を中心に関西から来る芸人たちと浅草や東京、関東出身である芸人たちの凌ぎ合いを案に描いているようで、非常に興味深いのです。

 実はこの時期、同じ東京出身の芸人である石橋貴明さんと『日曜ゴールデンで何やってんだテレビ』というのを放送していて、私はこれを毎週欠かさず見ておりましたが全10回で打ち切りと言う結果に終わってしまいました。この時最低視聴率を記録した回に大杉漣さんがご出演されていて(内容はめちゃくちゃ面白かったんですよ、本当に)、大杉さんが『完結編』に出演されるのは、何かこう、その辺全部繋がってるのかな、と、或いは、監督なりの罪滅ぼしなのかな、と思ってしまいました。

 関係ないと思われる事が映画に意図せず反映される事は決して珍しい事ではないのです。

 『ビヨンド』の間に『龍三と七人の子分たち』(大勢の老人が観に行ったため興行収入が良かったとか)を挟み、『アウトレイジ』の完結編が公開されます。

 さて最初に説明した『ソナチネ』ですが、印象的なモチーフとして槍の突き刺さったナポレオンフィッシュの映像が使われています。『アウトレイジ 完結編』は魚釣りのシーンから始まるのですが、昼間に連れる筈のない太刀魚を監督演じる大友の、韓国での舎弟が釣り上げようとしています。結局太刀魚は釣れないのですが、拳銃を海に向かって放ったところ、本来夜しか釣れない筈の太刀魚が銃に撃たれて死に、漂っているのが写されます。

 もしかすると北野監督は『アウトレイジ』の完結を『ソナチネ』でやろうとしたのかも知れません。

 それが意味するのはすなわち、大友の死に場所探しの映画です。

 今回、大友の出番は少ないんです。要所要所にしか登場しない。物語が動いている日本ではなく、途中まで韓国にいる事もあるのですが、ほとんどが西田敏行さんと、塩見三省さんと、そしてピエール滝さんの極めて現代的なヤクザ抗争が描かれます。

 西田さんと塩見さんは、前作からの登板で安心感がありましたが(ちょっと見ていて塩見さんの体調が心配になりましたが)、ピエール滝さんの相性の良さに驚きました。しのぎの才能があるドMのヤクザと言う役柄だったのですが、日本中探してもこの役をあそこまでうまく演じる人はいないでしょう。

 話が反れるのを承知で書きますが、私は中学の頃たまたま聞いた『電気グルーヴのオールナイトニッポン第2部』で衝撃を受け電気、ひいてはテクノ・ミュージックにどっぷりハマたという過去があり、今回そうした昔好きだったものが総て集約していく感じも『完結編』にはあって、とにかく感慨深いものがあるのです。

 話を戻します。

 『アウトレイジ 完結編』は見方を選ぶ作品だと思います。

 『アウトレイジ』のような暴力描写は必要最低限に絞られ、『ビヨンド』のような啖呵の切り合いも少なく、ただひたすら大杉漣さん演じる元カタギの会長と、それを良く思わないヤクザたちが、韓国のフィクサーで、大友を匿っている大物とのいざこざを利用して、会長の座を狙う姿が描かれます。

 不穏な空気をそのままに、映画を観終わった結論としても、どうやったって今偉い人達が作ったシステムを変える事が出来ない、という着地をしていて、爽快感もありません。

 おそらく大半の人、特に過度のバイオレンスを期待して観に行った人こそ、肩透かしを食らった事でしょう。

 一体『アウトレイジ 完結編』とはどういう映画なのでしょうか。それを読み解くカギは『ソナチネ』にあるのだと僕は思います。先ほど少し『ソナチネ』の内容を書きましたが、これ『アウトレイジ 完結編』と話が似ていると思いませんか?

 沖縄と韓国に舞台を変えた同じ話、と言うよりも、『ソナチネ』はヤクザに狙われる側を切り取った作品で、『完結編』は『ソナチネ』におけるたけしさんを狙ったヤクザ側の視点をクローズアップした作品なのではないでしょうか?

 『ソナチネ』の村川と『完結編』の大友の行動はほとんど一緒です。その見せ方が違うだけ。

 ナポレオンフィッシュと太刀魚という死の象徴に魚を取り出すのも、気付いてくれと言わんばかりです。

 ここに考えが至った時、もしかして、と、ある意図に気が付きました。

 これは完全に私の深読みのし過ぎなのかもしれません。ですが、そうも思えるよね、というひとつの考察だと思って聞いてほしいのですが、あえて『完結編』は憂鬱な終わり方にしたのではないかと思うのです。

 その理由はただ一つ。

 『ソナチネ』で提示した、死の魅力からの解放が狙いだからです。

 『ソナチネ』の主人公はラストシーンで拳銃自殺します。それがかっこよかった。『沖縄ピエロ』と仮題していたように、『ソナチネ』のバックボーンにある作品はジャン・リュック・ゴダール監督の『気狂いピエロ』です。その主人公はラスト、頭にダイナマイトを巻いて死のうとしますがその直前、それを後悔し、止めようとしますがうまくいかず爆死します(このモチーフはピエール滝さん演じる花田の死に方に被る)。『気狂いピエロ』とはまるで違う印象を『ソナチネ』は与えてしまっています。

 当時の僕がそうだったように、そして多くの人が感じたように、『ソナチネ』は魅力的であり続けます。まるで死を讃えているかのように。

 しかし実際問題、死は何も解決しないのです。何も変える事が出来ない。

 『完結編』の大友は『ソナチネ』の村川同様、ラストシーンで拳銃自殺します。

 しかし、その後のシーンで西田敏行演じる西野が会長に就任するという、事態が変わらなかった事の提示が明確にあります。

 これは逆説的な意味で、死の否定に繋がりはしないでしょうか?

 『ソナチネ』同様の雰囲気を抱かせながら、明らかに異なる舌触りを持つ『アウトレイジ 完結編』は、実はものすごく希望の映画なのです。その描き方が、たけしさん流の、ストレートではない描き方だから誤解され、人によってはこれまでのシーンの焼き直し、ひいては監督の力の低下を連想してしまうかも知れません。

 ですが、もしそう感じた人がいるとすれば、それは違います。

 自殺しても何も変わらない、だから生きよう。

 これが裏のテーマだとしたらどうでしょう?

 『アウトレイジ 完結編』は『アウトレイジ』シリーズの完結ばかりではなく、初期作品から続く死に憑かれた男たちへの贖罪にもなっているのです。こうも見えるという1点から私は本作を『ソナチネ』に続く傑作と感じました。

 見る人を選ぶ映画だと思います。しかし北野映画はいつだってそうでした。

 『ソナチネ』から24年。

 もしかすると北野監督は今、生きたい、と思ってるのかもしれないな、私にはなぜかそう思えてならないのです。

 そんな訳で、
 こちらからは以上です。