第6回 君の名は。


 第6回 君の名は。

 ドライバー求人サイト、ドラEVERをご覧の皆様こんにちは。或いは、こんばんは。
 窓辺のマーガレット、キョウキ・カンバーバッチです。

 いつもは15日頃に更新いただいている当連載ですが、ちょっと遅くなってしまいました。ドライバー求人サイトでの連載なのに、〆切に遅れるとは何事だ、という感じでございますが、本当にその通りです。日々時間通り物流したり、電車やバスの運行を行う皆様には本当に頭が下がる思いですね。

 さて、今回は第1回『シン・ゴジラ』の時にもほんの少し触れた『君の名は。』について書いてみようと思います。今回で連載半年の節目という事もあり、初回で触れた昨年のNo.1大ヒット映画について食わず嫌いせずに向き合ってみようと思ったのが、取り上げるキッカケなのですが、その話の前に、前回の話題の落ち穂拾い的な事をしなければなりません。

 前回、第5回のテーマは動画配信サービス、取り分けNetflixとAmazonプライムビデオに関しての感想を書きました。

 実はその理由として、もちろん旅先でも見れるから、という理由もあったのですが、前回の掲載がNetflixのドラマ『ザ・ディフェンダーズ』が始まるタイミングとほぼ一致していたので、そこにぶつけよう、という意味合いがあったのです。

 しかしこれがまた、フタを開けてみたら困っちゃいました。

 『ザ・ディフェンダーズ』。正直ちょっと微妙な出来栄えだったんです。

 いや~、これには私も困惑ですよ。だって前回、あんなに凄い事になってるよ! ってご紹介してしまったのですから。例えば仕事として、Netflix側から記事を依頼されたのであれば、そのままでも良いのかもしれません。しかしこの連載は私の感想が主でありますので、そう言うわけにはいかないのです。微妙だったら微妙だった、とお伝えしなければ信憑性にかけてしまいます。何より、僕自身も気持ちが悪い。

 という訳でこの辺が微妙だったよ、という感想を書かせていただきますね。

 『ザ・ディフェンダーズ』。何より短いんです。他のドラマが全13話で描かれているのに対し、全8話で終わってしまいます。単純に考えても登場人物が4倍になっているのに時間が3分の2程なんです。これはもう、深くキャラクターを描く事が出来ないんじゃないか? と思ってしまいますよね。実際そう感じました。

 既にこれまでのドラマで登場人物たちの描写は丁寧にしてきたのだから、今更深く描く事はないんじゃないの? と思われる方もいるかも知れませんが、どうにも各描写がおざなりな感じなんです。単体のヒーロー物から群像劇へと移り変わる訳ですが、群像劇の面白さと言えば各キャラクターたちの掛け合いです。

 要所要所、これまでのドラマを追いかけて来たファンなら、観たい! と思う場面がある訳じゃないですか。ジェシカとルークの関係だったり、一人一人の正義の考え方に差異が見えたり。どうにもたまたま出会って、何となく4人で行動する、みたいな物足りなさがあります。

 そして物語の構成ですが、『アイアン・フィスト』の良くないところがそのまま『ザ・ディフェンダーズ』に受け継がれてしまったような印象で、どうにも爽快感に欠けます。ずっと敵側であるヤミノテと主人公サイドがアイアンフィストを取り合うという内容なんです。

 これじゃまるで、アイアン・フィストがヒロインのよう!

 本当に皆こういうのが観たかったの? という出来栄えなんです。そうじゃないでしょ? 遂に覚醒した『アイアン・フィスト』が、光る拳を唸らせて戦わなきゃダメなんですよ。そんで最強のボスに4人の複合技、デアデビルが注意を反らしている間に、ジェシカ・ジョーンズが敵の猛攻を防ぎ、ルーク・ケイジに投げられて威力を増したアイアン・フィストの拳がエレクトラをぶちのめす、みたいな後年まで語り継がれる展開に盛り上げなければ、共闘の意味がないんです。そういうのが観たかった。

 ヒロイン物ではなく、ヒーロー物が観たかった。

 私の感想はこれに尽きますね。

 もちろん、いいところもあるにはあるんですよ。ルーク・ケイジが単体で登場するところだけブラックミュージックがかかってたり、ルークとアイアン・フィストが拳を交えるところも良かったです。って、ほとんどルークのシーンですが、僕は強いヒーローが観たいんですよ。スイート・クリスマス!

 さて少しフォローいたしますと、『アイアン・フィスト』のシーズン2制作が決定したようです。脚本家が総入れ替えになるとの報道がされていますので、少なくともこれまでのような展開ではなくなるでしょう。それは一つの希望です。
 アメリカでも決して評判が良いとは言えない『アイアン・フィスト』、どのようにテコ入れがなされるか期待半分で注目していきたいと存じます。

 ここからようやく本題でございます。

 多くの人が観た『君の名は。』ですが、観てない方も当然いると思いますので注釈を書かなければなりませんが、この先ネタバレをいたします。容赦ないです。核心に触れます。全部書きます。観た事がある人前提の感想です。

 それでも構わない、という方は続きをお読みください。

 では、始めます。

 『君の名は。』。
 もしかしたら一生観ない映画だったかも知れません。

 僕は恋愛映画が苦手です。映画は好きですけど、当然苦手なジャンルがあるのです。僕が好きな映画は、宇宙人が出てきたり、怪物が出てきたり、殺人鬼が出てきたりする、そういう類の楽しい映画。所謂、ジャンル映画というやつです。

 映画少年、映画青年だった僕にとって、青春時代は取り分け暗黒期で、女の子とは無縁の生活でした。映画の中に登場する女性に真剣に憧れるような、痛い男です。だから理解できないのです。

 何の取り柄もないという設定の女性が(この時点で女優が演じているので感情移入できません。かわいい、美人という取り柄があるじゃないか!)、何故かタイプの違う男性に一方的に好かれて、どっちつかずであれこれあって、最終的に一人を選ぶ。しかも選ばれなかった方にも嫌われないで終わる。みんなみんなハッピーエンド。いいね! を押したくなるような良くある気軽な内容のデートムービーですが、この面白さが理解できません。意味不明です。

 人によっては宇宙人が地球人を惨殺するような映画の方が理解できないよ!

 と思われるでしょうが、イマジネーションを刺激されるそういった作品の方が、私には込み上げてくるものがあるのです。

 少し話がそれますが、ついでに話しておきますと私が好きな恋愛映画は『トゥルー・ロマンス』です。何だよキョウキ、そんなベタな恋愛映画っぽいタイトルの映画、ちゃんと好きなんじゃないか。やれやれ。と思われた方もいるかと存じますが、この映画は恋愛経験の少ない男子のツボを押さえまくっています。何せ監督がトニー・スコットで、脚本はクエンティン・タランティーノ!

 冴えないコミックショップ店員の主人公は、唯一の楽しみが週末のレイトショーで70年代の(一般的な日本人でも観てないような)日本のアクション映画を観る事というタランティーノの売れない時代を反映したようなガイ。その前にひょんな事から現れたセクシーな女性アラバマの虜になった彼は、彼女の為に殺人を犯し二人で逃避行に出る! という、こじらせた男の妄想そのまんまの映画。ヲタク気質の男子が女性を知らない時期、女性を天使か娼婦という2択でしか思えない、と聞きますが、まさにそんな感じだった自分にもガッチリとハマって、最高に好きな映画です。

 中でも好きなシーンがあって、主人公が彼女にスパイダーマン第1話の内容を熱く語るシーンがあるんですよ。彼女はそれを「素敵!」と優しく聞いてくれる。普通セクシーな女性がそんな事してくれないですよね? あり得ないんです。でもこの映画にはいる。自分が好きなことの話をしても引かないで聞いてくれる女性の存在が、どんなにありがたい事か! 世の男性諸君、わかっていただける事と思います。

 タランティーノは当時自分の脚本家ら変更された結末について納得していなかったようです。おそらく60年代の傑作クライム映画『俺たちに明日はない』の現代版にしたかったのでしょう。『トゥルーロマンス』の後年、タランティーノの原案という形で『ナチュラル・ボーン・キラーズ』という映画が公開されます。こちらも男女カップルが殺人を繰り返すという近しい設定を持ちますが、タランティーノはオリバー・ストーン監督によって過激に脚色されたこの映画にも不満を持っていたようですが、私はどちらも好きな映画です。

 斯様に、私にとっての恋愛映画と言えばこういった、自分が理解できる範囲での突飛な物という事になってしまいます。

 だから、『君の名は。』を観る気はしていませんでした。

 何故なら、『君の名は。』単なる恋愛映画だと思っていたからです。

 だってそうでしょう? ヒットが叫ばれるようになってから、連日テレビ等のメディアでは、女性が多くリピートしている点などを上げつらい、さも恋愛映画であるかのような感じを醸し出していました。タイトルだってそうです。第1回にも書きましたが、『君の名は。』と聞いて映画ファンが思い出すのは、戦争で引き裂かれた2人の恋愛模様を描いた日本映画の名作『君の名は』です。

 これはきっと恋愛映画に違いない。

 男女の身体が入れ替わって、お互いを理解するようになって、会いに行って結ばれる。

 そういう内容の映画だとばかり思っていました。

 もしかして日本の映画宣伝の構造上の欠点かなと存じますが、恋愛映画だという風に宣伝されると、ある一定層、私のような一切響かなくなる人間がおりますので、それは良くない事かなと思いますが、実際的に超ヒットしてますし、私みたいな人間の方が少数は何でしょうね。口をつぐみます。

 しかしながら、恋愛映画だとばかり思って観に行った人たちであっても、観終わった後に、きっともう一つ、別の感想を持つに違いないのです。

 『君の名は。』とても素晴らしい映画でした。

 自分からそんな言葉が出るとは思いませんでしたが、本当に素晴らしかった。

 どこを観るか、によって全然違う感想になる映画だと思います。だから以下は、自分にはこう見えた、という意味合いで感想を書きますね。

 この映画は、東日本大震災を彗星に置き換えた映画です。

 昭和の『君の名は』は、戦争によって引き裂かれた男女の恋愛を描き大ヒットしました。それは当時の日本人にとって、未だ戦争が身近な不幸であったからに他ありません。去年、僕たちにとって最も身近な不幸は震災でした。

 突然、何の前触れもなくそれは起こり、多くの人が亡くなりました。

 「なぜ?」「どうして?」と誰もが思ったでしょう。しかし考えてもその答えは出てきません。出る筈がない。誰にもわからず、ただ受け入れるしかないんです。

 2016年という年は、多くの人があの地震を受け入れ始めた時期だったんじゃないかと僕は思うんです。

 『シン・ゴジラ』の感想でも書きましたが、あの映画も震災の体験がなければ生まれてない表現をしていました。核の脅威、戦争の暗喩だったゴジラが現代、地震や津波という災害の暗喩になった瞬間です。『シン・ゴジラ』の素晴らしさの肝はその未曽有の意味不明な災害に、日本人が手を取り合って協力し、それに打ち勝つというところにあります。

 この点『君の名は。』も同様で、彗星が落ちてくる事を悟った主人公たちが、身体を入れ替えながらその災害から住民を救おうとします。

 どちらにも共通するのは、もしもこうだったら? なんです。

 あまりにも悲しくて辛い事があったとして、人がそれを受け入れるしかなかった時。誰もが考える、思う、もしあの時こうだったら?

 『シン・ゴジラ』と『君の名は。』。この2つの映画にはそれが描かれているのです。

 それが2016年に公開され、そしてそれがどちらも大ヒットした理由は一つ。誰もがそれを観たかったからです。

 どうする事も出来なかった災害。消える事のない感情。『シン・ゴジラ』はそれを協力して打破し、『君の名は。』では文字通り時間を巻き戻して災害を回避します。あの時できなかった事、あの時したかった「もしも」が観れる。

 怪獣映画、恋愛映画でありながら、この2つは災害で得た傷から人を慰める効果があるのです。

 より恋愛という、多くの人にアピールする要素を多くはらんだ『君の名は。』の方がヒットした事もまた頷けますが、この2本の映画はベース、根本部分がほぼ同じ映画なのです。

 庵野監督と新海監督という2人のクリエイターがどれだけそこに気が付いて作品を作ったのかは分かりません。しかし、優れたクリエイターであればあるほど、時代の空気を知らずに盛り込んでしまうようなところもあるんじゃないかと私には思えるのです。

 この事に気が付いて、私は涙が出てきてしまいました。

 映画には人を勇気づける力がある。この2本の映画が多くの人の支持を受けた事がそれを物語っています。

 誰も求めてない時代の空気の上っ面だけで撮られた映画と、この2本のヒット作はまったく別の物なのです。求められて出来ている。

 私にとっての不幸は『君の名は。』を単なる恋愛映画だと思い込んで観るのが遅くなった事。だから今日まで、この重要な意味に気が付きませんでした。

 「君の名は」

 災害で誰かが亡くなった時、遺族が最も恐れるのは、忘れてしまう事です。脳はショックを与えると、そこから心を守る為、忘却する、という防衛反応を起こします。大切だった人の顔も、優しさも、そして遂には名前すら分からなくなってしまう。

 「忘れたくない人! 忘れたくなかった人! 忘れちゃダメな人!」

 一人一人、その名前は異なります。

 取り戻したい事がたくさんある。でもそれはできない。せめて、映画の中だけでもいいから。

 これを例えば、直球のドキュメントでやってしまうと厳しすぎて人は直視できません。忘れたくないと気持ちで思っても、本能的には忘れたいからです。『君の名は。』と『シン・ゴジラ』の優れているのはしっかりとそれぞれ、恋愛映画と怪獣映画に仕上げた事。その上で感じさせる事が出来る。

 この、何と言ったら良いか、ヒーリング作用みたいなものは、絶大な効果があると思います。

 だから万人に受けた。

 口には出さないけど、皆それぞれ何かを感じています。

 これは素晴らしい事です。そしてこれこそが、映画の真の目的の一つなのかも知れない。僕にはそんな風に思えてなりません。

 人が望んだ映画は、やはりヒットするものなんですね。

 『君の名は。』は特に丁寧な映画でした。始まりからずっと、無駄がない。でもちゃんと、遊びも描かれている。新海監督の真摯さが画面いっぱいに感じます。私が好きなのは、頻発する仕切りの描写です。電車のドア、実家の畳。扉が閉じられる描写が多発します。

 画面が切り替わる効果もありますが、この2人が交わらない存在である事や、普通人の心と心は決して交わらないという現代社会をも表現しているようで私は好きです。

 それから『君の名は。』の内容ですが、私の好きな邦画『水の中の八月』に似ていると思いました。この映画の主人公である女性も神聖な力を生まれつき持っていて、化石病という未知の病が流行っている世界から人々を救う物語です。

 『君の名は。』と大きく異なるのは、その子が最後にはいなくなってしまう事。彼女に恋心を寄せていた青年は一人ぼっちになっています。

 この結末の違いもまた、現代の空気によるところは大きいのでしょうが、興味のある方はご覧いただく事をおススメいたします。新海監督がご覧になった事があるかも個人的には気になるところです。

 えー、さて、『君の名は。』ではもう一つ、重要な事が描かれています。それは、男の子は女の子のおっぱいが好きでたまらない、取り分け好きな女の子のおっぱいは好きで好きでしょうがない。という事を描いている点です。

 「あいつに悪いな」と言いながら次のシーンではおっぱいを揉んでしまっている瀧君の姿を多くの女性に見せつけた功績は大きいと考えます。

 少し真面目な事を書き連ねてしまったので、最後にそっと照れ隠しを書いてここで締めたいと存じます。

 そんな訳で、
 こちらからは以上です。